けらけらむしざっき

雑記。いかに楽に、幸せに生きるか。

Twitterを消したら

ついさっき、Twitterのアプリを消した。

そうすると、スマホをパッと開いたときに、指の動きが止まるようになった。どういうことかというと、(今まではスマホを開いた瞬間にTwitterを開いていたから、それがなくなったことによってタップできなくなり)「指のやり場」がなくなってしまったのだ。

こうして消してみると、自分がどれほどTwitterに依存していたか分かる。Twitter中毒と言っても良いかもしれない(とりあえず今のところは禁断症状は出てないけれど)。

そんなこんなで、なんだか読んだり書いたりするやり場がないのも困ったなぁ、と思って、久しぶりにブログを更新している次第である。

 

ところで、なぜTwitterを消したのか。

第一に、コスパが悪いからである。Twitterの情報は常に更新されるため、いつ開いても新しい情報が(時によっては大量に)得られる。そうすると、常に知りたいという気持ちになって、Twitterを常に見るようになってしまう(先ほど述べた、Twitter中毒である)。一方で、それによって得られている情報の価値は、そんなに高くない。時折すごく面白かったり興味深いツイートもあるけれど、やはりコストパフォーマンス的にはあんまりよろしくないんじゃないか、と思う。

第二に、世界が嫌になってしまいそうになるからである。いやはや、なんか大げさなことを言ってしまった。まあそれはさておき、どういうことかというと、Twitterを見ていると自分の見たいようにしか見ない人が多すぎることが分かる。それは、右左に関わらず、事実そっちのけで、自分の見たいようにその事実を解釈してしまっている、ということである。それを見ていると、なんだかどうしようもない気分になってくる。人は分かり合えないんじゃないか、的な。それを一言でまとめると、世界が嫌になってしまいそう、ということになる。

 

ちなみに、Twitterでそんな人がたくさんいる理由の(僕なりの、とはいえ他の人も言っているだろうけど)仮説がある。

(1)同じような発言をしている人をたくさんフォローしているため、情報量は変わらないのに、自分の発言が正しいと思い込んでしまうため。「AはBだ!」という主張が量産されようと、その正しさはそんなに保証されないんだけれども、みんなが「AはBだ!」と言っているからやっぱり正しいんだ、と思うようになってしまうということ。この場合のみんなとは、フォローしている同質集団のこと。その輪から外れれば、全然みんなではなかったりするけれど、なかなかそのことに気づけていないように見える。

(2)同じことを言っている有名人がいるため。大学教授から謎のコメンテーターまで、様々なことを言っている人がいる。その中には、自分たちと近い思想の人もいる。その人をピックアップして、この人が言っているんだから間違いない、という風に思い込むわけだ。その他の人は違う意見だったりするんだけれども、そんなことは気にしない。だってわたしが正しいということはつまり、それ以外は間違っているんだもの。

(3)Twitterの文字数制限のため。基本的には議論は、「あなたの言っているこの部分は正しい(鋭い)けれども、私はこれに加えてこうだと思う」のように、譲歩+自分の意見という順番であるべきであると思う。それが建設的な議論の前提だろう。そうじゃないと、自分の意見を言いっぱなし、ただ相手を否定して終わる、ということになってしまう。それでは、なかなか妥協や、より妥当な結論に到達するための議論はできない。しかし、Twitterの文字数制限下では、この譲歩を行う文字数がない。自分の意見を言うので精一杯である。それゆえ、意見vs意見の生産性のないドンパチが繰り広げられるのであろう。

 

と、まあダラダラと思うところを特に推敲することもなく書き連ねてみた。ダラダラと書いただけあって、なかなかに読みづらい文章に仕上がっていると思う。このような、ちょっと読みづらい文章を読めるかどうか、について考えたことも、時間と気力があればまた記事にしてみたいと思う(ここでは関係ないし面倒なので書かない)。

ところで、こうして書き上げれた、というのは、Twitterという阻害要因がなかったからかもしれない。そういう意味では、Twitterを消した効果がすでにあらわれている、と言って良いだろう。

終わりどころがわからなくなってきた、ブログってどうやって終わるんだろう。Twitterみたいに文字制限がないのも、それはそれで(書き手としては)面倒だったりするんだね、ということを実感しつつ、ここで筆を置こう。