けらけらむしざっき

雑記。いかに楽に、幸せに生きるか。

11/7の目標

さて、まずは昨日の目標について。

 

(1) 教科書1の1章と2章を読む(30ページくらい)

→1章は読んだ

(2)教科書2の2章を読む(40ページくらい)

→半分くらいは読んだ

(3)論文を一本読んでまとめる

→全く読めず

(4)明日の朝は7:30に起きる

→起きたのは9:30

 

ということで、とんだ夢物語、全く実現できず、でしたね。色々と予定外のことをやらねばならず、それに時間を取られた面もあるにはあるんですが、にしてもできてないですね。朝起きるに関しては、スマホを振動させないととまらないアラーム(スマホを動かすための運動によって目を覚ます)をセットしたのに、鳴った瞬間にアプリを消したのが敗因です。

ということで(?)今日の目標はもっと現実的なものにしようと思います。

 

(1)教科書1の2章を読む

(2)教科書2の2章を読む

(3)論文を1本読んでまとめる

(4)明日の朝は8:30には起きる(アプリは消さない)

 

アレですね、完全に昨日の敗戦処理感がありますけれども、こんな感じでやってみようと思います。

11/6の目標

やっぱり外圧(?)がないとサボりたくなるんですよね、諸々。

自分だけだとね。

なので、ブログに今日やることを言える範囲で書いて、翌日に達成したかを報告する的なやつをやってみようと思います*1。カテゴリーを「やること」に設定したので、興味ない人(がほとんどだと思われるけれど)は「やること」カテゴリーの記事は見ないという方向でお願いします*2。あとタイトルも11/6の目標とかいう感じで、それとわかるようにしておきます。

雑記の方は、今まで通り*3の感じで続けていこうと思います。

さて、今日やることについてですけれども、どうしても最初に立てる目標とかって高くなりがちですよね。1日に論文5本読んで朝5時に起きるとか。無理無理。そののち立てなくなるんですよね。わかります。ってことで、最初の目標はそこまで高くないものにしようと思います。

(1) 教科書1の1章と2章を読む(30ページくらい)

(2)教科書2の2章を読む(40ページくらい)

(3)論文を一本読んでまとめる

(4)明日の朝は7:30に起きる

うん、高い。これは結構キツい*4。まあでもこのくらいはしないといけないんですよねぇ…。何気に朝7:30が一番キツい可能性もあります。

明日の朝7:30に起きて、8:00くらいに11/7の目標を更新できると良いですね。前日の振り返りとともに*5

頑張ります*6

*1:ほとんど誰も見ないから実質的に外圧はないのでは?というご批判はもっともですが、気分の問題なのでまあ僕が良ければそれで良いのです。あと、これをきちんと続けていけば貴重な縦断データが得られるのでのちのち分析できる!とかいう個人的エモもあったりします。

*2:かといってほかの記事に興味がある人がいるのかとかいうとアレですけれども。

*3:今まで通りというほど続けてもいないけれど。

*4:教科書1と論文は英語なので。

*5:こうして振り返ることでメタ認知を働かせ、自身のスキーマを更新していくとともに、縦断データも手に入るというエモですね。この部分に関して説明はしませんけれども。

*6:頑張るとは、どのようなことを具体的に意味しているのですか?という方に対しては、上記のように、とお答えしておきます。観測可能な行動で測るというのは一つの手段ですよね。まあ、「読む」とは具体的になんですか?とか言われそうですけれども。その場合はキンチェとか引用しときましょうか。注釈は書きたいことを特に解説する気も無く書いているので、わからないことこの上ない文章が出来上がっていきますね。

いじめについて

今日は、いじめについて、(大学の)学科同期と話しをしたりしました。そこで、過去に僕が書いたレポートと関連する話題が出たので、引っ張り出して、まあせっかくなので(?)少し手を加えた上で公開しようか、と思った次第です。レポートの内容を公開するのがセーフなのかはわかりませんけれども、成績が出たあとなので剽窃とかは大丈夫かな、ということで公開します。

特にわかりやすく書き直そうというほどのやる気はでなかったので、小難しく書いたままです。また、以下で紹介している種類のいじめというものはすべてにおいて当てはまるような話ではないということはあらかじめ言っておきます。

言うまでもないですけれども、課題のレポートに流用してやろう、というのはダメですしバレます。

あ、あと僕としては今更なのでこういう話をしてもなんとも思わないんですが、読む人によっては暗い気分になる可能性があります。

 

『いじめの政治学』とは異なるタイプのいじめー個人的な経験からの語りと分析ー

1.はじめに
中井(2016)は自身のいじめられた経験をもとに、いじめの構造と、いじめがクラスの中でどのように成立し、問題視されなくなっていくかを分析し、子どもに語りかける形で記述している。特に興味深いのが、いじめが進行するプロセスである、「孤立化」、「無力化」、「透明化」の3つのプロセスである。これは、少なくとも個人的には、いじめがある特定の個人(群)に対して、クラス全体を巻き込んで持続的に行われる際のプロセスをよく表しているように思われる。実際、昔を振り返ってみれば、「無力化」、「透明化」までは行われないまでも、集団によって、意図的、無意図的に「孤立化」が行われてきた場面を多く目にしてきた。
 鹿嶌(2008)は、中井(1997)をレポート課題に用いて、教職課程を受講している大学生のいじめ理解がどのように変容するかを検討している*1。その結果、いじめの構造への気づきや、プロセスへの着目、いじめの被害者批判の減少など、大学生のいじめ理解が変容したことを示している*2。このように、中井(1997)はいじめの理解に実際に役立っている。
 しかしながら、実際に起こっているいじめは、良くも悪しくも、中井(2016)が想定しているほど、特定の個人(群)に対してクラス全体を巻き込んで行われる持続的なものではない場合もある。
本稿では、私の個人的ないじめられた体験をもとにして、中井(2016)を補完するような形でいじめを分析したいと思う。その際、相応しくないと思われる表現もあるかもしれない。しかしながら、客観性にとらわれるあまりに、体験者としての語りを重視できない、という状態を避け、可能な限りその場にあったものを表現できるように心がけたがゆえである。客観では語り得ないものを語るという点において、意義深いと言えよう。なお、主観的な表現に関しても、可能な限り定義をするように心がけた。また、個人的な体験であり、一般化は必ずしもできないことはあらかじめ指摘しておく。
 以下では、まずいじめの定義を紹介し、個人的体験をもとに分析を行なっていく。

 

2.いじめを分析するー私の個人的体験を通してー
 私の個人的体験を通して中井(2016)を補完するにあたって、まずはいじめの定義を紹介しよう。文部科学省初等中等教育局児童生徒課(2014)では、以下のように定義されている。

 

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 

 この定義からも明らかなように、いじめは、必ずしも持続的なものであるわけではないし、クラス全体を巻き込んで(クラス全体の目に映る場で)行われるとも限らない。実際、私(たち)に対して行われたいじめは、断続的なものであった。
 中学生のころ、私たちの学校には確かにいじめがあった。私がターゲットになることもあったし、ほかの人がターゲットになることもあった。それは、誰かが毎日ターゲットにされるという形式ではなく、断続的に、ランダムに被害者が選ばれるという形式であった。この点において、中井(2016)の基にしている体験とは異なっていると言えよう。
 被害者に共通していたのは、いわゆる「陰キャ」とカテゴライズされる人々であった点である。ここで「陰キャ」とは、うだつのあがらない、クラスの中で周縁的な立ち位置にいる人々のことである*3。このように、「陰キャ」というレッテルを貼ることは、中井(2016)の言うところの、いじめられても仕方がないという空気を作り出す「PR作戦」であろう。実際、被害者にも悪いところはある、しょうがないという空気は確かにあった。とはいえ、「孤立化」までは至っていなかった。持続的に「孤立化」、「無力化」、「透明化」のプロセスを経るいじめとは異なり、断続的にターゲットが変わるいじめの特質として「PR作戦」にとどまることが多いと言えるのかもしれない。
 なぜ、いじめは持続的なものではなく、断続的なものだったのだろうか。それは、いじめの主犯格とされる人々が、いわゆる「不良」と呼ばれる人たちであり、そもそもクラスの中にいることが少なかったからではないだろうか。そのため、クラス内で常にいじめが行われるということはなく、偶発的にいじめが行われるという形式だったのだろう。しかし、ここで疑問が生じる。クラスにいないならば、「PR作戦」は一体誰が主導したのか、という疑問である。この点に関しては、「不良」がいじめのために主導したわけではなく、クラス内で自然に形成された、とみるのが妥当であろう。ここに、自然に形成されていく空気というものの恐ろしさが現れていると言えよう。それは、「不良」を媒介にしていじめという形を取ることもあれば、クラス内でなんとなく虐げられるという形を取ることもある。これは、必ずしもいじめの定義には当てはまらないが、クラスにおける問題を提起しているといえよう。
 いじめの種類は、暴力を伴ういじめが多く、時には「肩パン」(相手の肩を殴る)という形であったり、「プロレスごっこ」(プロレス技を決める)であったりした。また、数人で取り囲んで、くすぐったり、靴下を脱がして外に投げたり、あるいは荷物を投げたり、壊したり、奪ったりすることもあった。このような集団で行われるいじめにおいて、私の経験として問題だったのは、主犯格とされる「不良」以外の人たちである。ここにおけるいじめの構造は、「ドラえもん的」という言葉が当てはまるかもしれない*4。どういうことか、というとジャイアンのび太をいじめている主犯格のように見えるが、その実、いじめの場面を作ったり、状況を悪化させたりしているのはスネ夫であったということである。私の場合も確かにそうで、スネ夫的人物がきっかけであることが多かった。ここにおける問題点は、とりわけ外部からはスネ夫的人物の狡猾さ、悪意が見抜けないことである。実際、教師が叱るのは、大概ジャイアン的人物であり、スネ夫的人物はあまり叱られることはない。しかしながら、きっかけを作るのは大概スネ夫的人物であるので、この指導ではいじめの改善はあまり起こり得なかった。スネ夫的人物は、あまり叱られないので、それほど反省せず、時がたてば、しばしばターゲットを変えて同じことを繰り返すのである。

 

3.おわりに
本稿では、私の実体験をもとに、中井(1997)とは異なるであろう事例を分析した。ここで明らかになったことは、大きく分けて(1)いじめの中には断続的に、ターゲットが「陰キャ」の中からランダムに選ばれることもあるということ、(2)「陰キャ」というレッテルは「PR作戦」の成果として捉えることもできるが、実際にはクラスにおいて自然に発生したものである可能性があり、いじめに限らず多様な問題点をはらんでいること、(3)「不良」が主犯格であり、教室にいないことが多いならば、いじめは断続的で「陰キャ」の中からランダムに選ばれる形式になりやすいのかもしれないということ、(4)集団で行われるいじめには、「ドラえもん的」といっていい構造がある場合があり、その場合は特にスネ夫的人物の狡猾さ、悪意が外部からは見えにくいという問題があるということ、の4点である。
本稿では、体験の語りを生かすという特性上、例えば「陰キャ」などの不適切な表現もあったが、そのデメリットより、物語ることができたというメリットの方が大きいと考える。なお、本稿は、あくまで一事例の一面的な語りにとどまるものであり、一般化可能なものではない。しかしながら、いじめの理解の深化や、新たな問題点の提示、仮説の生成においては十分に役立つものであるといえよう。

 

参考文献
鹿嶌達哉(2008)「思春期の問題行動に対する大学生のとらえ直し : 中井久夫氏「いじめの政治学」に対するレポートの分析(発達,ポスター発表B)」, 『日本教育心理学会総会発表論文集』(50)。
中井久夫(1996)「いじめの政治学」、『アリアドネからの糸』。
中井久夫(2016)『いじめのある世界に生きる君たちへーいじめられっ子だった精神科医贈る言葉』。
文部科学省初等中等教育局児童生徒課(2014)「平成 25 年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/10/__icsFiles/afieldfile/2014/10/16/1351936_01_1.pdf、2018年7月20日閲覧)。

*1:中井(1997)は論文であるが、これにもとづく形で、子どもにも読めるように書き直されたのが中井(2016)である。

*2:ただし、中井(1997)のレポート課題のみならず、授業も行われているようなので、必ずしもレポート課題、中井(1997)を読んだことが原因であるとは言えない。また、中井(1997)を読んだ後であれば、それが本当に妥当だと思ってはいなかったとしても、コメントシートにはそれに沿った記述をするであろうから、必ずしも大学生の理解が変容したとは言い切れない。とはいえ、仮に理解が変容していない学生がいたとしても、知識が増加し、いじめを構造的に見る視点を得たという点に関しては間違いがないといって良いだろう。

*3:スクールカーストという文脈で言えば、最下層。

*4:ドラえもん』においては、ジャイアンスネ夫によるのび太に対するいじめが持続的に行われており、その意味では本事例とは異なると言える。ところで、ジャイアンスネ夫のび太に対して行なっている行為は、定義に照らしてみても明らかなように、いじめであるといえる。

いかに楽に、しあわせに生きるか、ということについて。

サブタイトル?的なものを、「いかに楽に、しあわせに生きるか」というものにしています*1。これをつけたのは大分前なので、もうなんでこれにしたのかはさっぱり覚えてないんですけれども。

それでも、やっぱりこれって大切だよな、と思います。だってしあわせって大切じゃないですか。理由になってない?うーん、しあわせが大切ってもはや説明できないレベルのものな気がします。公理みたいなもので。もうそれを認めた上でスタートしましょう、的な。

すべての活動は、しあわせになるという目標にもとづいて行われているのである、とか言っちゃうと一気にきな臭くなる気がしないでもないですが、それでもやっぱ最後はそこに行き着いてしまう気がします。お金持ちになりたい、であっても名声が欲しい、であってもなぜ?と聞かれると、だってそれがあればしあわせじゃん、というところに究極的には落ち着いてしまうような。

そんなこんなな、すべての活動がしあわせになるという目標に基づいているのか、という大変面倒なテーマは置いておくとしても、しあわせって大切だよね、っていうのは共通理解として成立するんじゃないか、と思います。

で、もうひとつの、楽にってのも大切だと思うんです。だって大変なのは大変じゃないですか。ただし、楽にってのは、時間とか労働量とかの話よりも、ストレスの量の話だと思います。ストレスフルだと疲れちゃいますから。これもあんまり理由になってないけど。

要するに、ストレスが少ない環境でストレスが少ないことをしながら、しあわせに生きたいっていう甚だ難しいことがやりたいわけです。要してない。

 

そんなことを考えながらここまで生きてみて、それをやることがしあわせに繋がるのか?ということを考えるのが良いような気がしています。例えば、一流企業に就職すればしあわせになれる、と思っていても、思い描くしあわせの形が一家団欒だったら、その手段はあんまり適当じゃないかもしれない。

まあ、しあわせってものは、行為の結果として得られる(例えばお金持ちになって良いものを買う)だけじゃなくて、行為自体でも得られる(例えばエモいことをしているとき)ものですから、そのあたりのしあわせの総量を最適化できるように考えて行動できると良いですよね。

甚だ面倒なことに、今は漫画が読みたい(それをすることがしあわせを最大化する)としても、1日終わるまでになにかしらの努力をしていないと、その罪悪感でしあわせが低下するみたいな残念なこともあります。その辺のマイナスも考えなきゃいけないので、結構最適化って大変なんですよね。

そもそも、自分がなににしあわせを感じて、なにをしなければしあわせが低下するのかなんてなかなかわかんないし。それでも、そういうことを意識しながら生きていると、意識していないよりは良い生活が(少なくとも僕にとっては)できる気がしています。

 

ところで、だいたい1段落が140文字前後になっているんですが、これはTwitterの呪縛でしょうか。Twitterは人の思考形式に影響を与えるのか。面白いテーマですね。関係ないけど。

*1:最後の段落まで書き終えて気づきましたけど、しあわせは漢字表記でしたね。なんだか、しあわせ、という言葉に残念ながらどこか違和感を感じるようになってしまったために、わざと平仮名で書いて違和感を表現しているのだと思います、多分。しあわせなんて、自分の中だけにある概念であって、ほかの人と全く同じものを共有できるもんでもないからね。

225日前

どうやら前回更新したのは225日前のようですね*1。225日前にどんな記事を書いていたかというと、Twitter消したぜ!って記事なんですが、まあ今読むと気に入らない表現があったりするもんですね。「筆を置こう」とか何ちょっと格好つけてんねん…とか思ったり。それはそれとして、なんでまた久し振りに更新しているのかというと、Twitterを消したからですね。Twitterを消すとブログをはじめるシステムになっております。

まあ、何かしらで言いたいことはあったりアウトプットの機会は持ちたかったりするので、Twitterで吐き出すことができなくなった分、ブログでも書くか、とか言う感じです。

Twitterと違って文字数制限もなく、見られているということを(それほど)意識しなくても良い、というのはブログの利点ですね*2。あと、こんな感じで注釈つけれるのも良いですね。あんまり調子に乗ってると、注釈とカッコばっかりの文章になってしまいそうですが。

ところで、Twitterをアンインストールした理由は、225日前のブログの記事で書いていることとほとんど一緒ですね。成長していないというか、同じ過ちを繰り返すというか。やっぱりついつい気になって再ダウンロードしてしまうんですよね*3。もうダウンロードしないぞとか思いつつ、まあiPadのアプリは消してないから見れるんだけどね、とか思いつつ。それでもやっぱり、スマホに入ってないだけで大分精神衛生上良い気がするんです*4

もう既に、Twitterだと6Tweet分くらいの分量を書いていますね。最近1Tweetにまとめられなくなっていましたけれども、ブログだとそんなことを気にしなくて良いのは良いですね。なんだかブログを褒めちぎっている気がします。

ブログの良くないところといえば、そんなに双方向的じゃないというところとかでしょうか。何かを言って、それに対してほかの人が何かを返して、やりとりが続いていくっていう可能性は、Twitterよりも低い(気がする)。まあでも、双方向性自体結構ストレスフルだったりするので、メリットと捉えることもできますけれども。結局、良いところの話になってしまった。

まあ、またやる気のあるときに、ゆっくり更新していけたらな、と思います*5

*1:なかなか更新しないもんだから、文体が定まっていません。

*2:Twitterで見られていることを意識してしまうのも、なんだか本末転倒な気もしますが。つぶやきにまで気をつかうなんてね。

*3:再ダウンロードという言葉は存在するのでしょうか。

*4:全然関係ないけど、スマホっていう文字列、文字で見るとすごくダサく感じてしまうのはなんででしょう。

*5:「まあ」を多用しすぎている気がします。

Twitterを消したら

ついさっき、Twitterのアプリを消した。

そうすると、スマホをパッと開いたときに、指の動きが止まるようになった。どういうことかというと、(今まではスマホを開いた瞬間にTwitterを開いていたから、それがなくなったことによってタップできなくなり)「指のやり場」がなくなってしまったのだ。

こうして消してみると、自分がどれほどTwitterに依存していたか分かる。Twitter中毒と言っても良いかもしれない(とりあえず今のところは禁断症状は出てないけれど)。

そんなこんなで、なんだか読んだり書いたりするやり場がないのも困ったなぁ、と思って、久しぶりにブログを更新している次第である。

 

ところで、なぜTwitterを消したのか。

第一に、コスパが悪いからである。Twitterの情報は常に更新されるため、いつ開いても新しい情報が(時によっては大量に)得られる。そうすると、常に知りたいという気持ちになって、Twitterを常に見るようになってしまう(先ほど述べた、Twitter中毒である)。一方で、それによって得られている情報の価値は、そんなに高くない。時折すごく面白かったり興味深いツイートもあるけれど、やはりコストパフォーマンス的にはあんまりよろしくないんじゃないか、と思う。

第二に、世界が嫌になってしまいそうになるからである。いやはや、なんか大げさなことを言ってしまった。まあそれはさておき、どういうことかというと、Twitterを見ていると自分の見たいようにしか見ない人が多すぎることが分かる。それは、右左に関わらず、事実そっちのけで、自分の見たいようにその事実を解釈してしまっている、ということである。それを見ていると、なんだかどうしようもない気分になってくる。人は分かり合えないんじゃないか、的な。それを一言でまとめると、世界が嫌になってしまいそう、ということになる。

 

ちなみに、Twitterでそんな人がたくさんいる理由の(僕なりの、とはいえ他の人も言っているだろうけど)仮説がある。

(1)同じような発言をしている人をたくさんフォローしているため、情報量は変わらないのに、自分の発言が正しいと思い込んでしまうため。「AはBだ!」という主張が量産されようと、その正しさはそんなに保証されないんだけれども、みんなが「AはBだ!」と言っているからやっぱり正しいんだ、と思うようになってしまうということ。この場合のみんなとは、フォローしている同質集団のこと。その輪から外れれば、全然みんなではなかったりするけれど、なかなかそのことに気づけていないように見える。

(2)同じことを言っている有名人がいるため。大学教授から謎のコメンテーターまで、様々なことを言っている人がいる。その中には、自分たちと近い思想の人もいる。その人をピックアップして、この人が言っているんだから間違いない、という風に思い込むわけだ。その他の人は違う意見だったりするんだけれども、そんなことは気にしない。だってわたしが正しいということはつまり、それ以外は間違っているんだもの。

(3)Twitterの文字数制限のため。基本的には議論は、「あなたの言っているこの部分は正しい(鋭い)けれども、私はこれに加えてこうだと思う」のように、譲歩+自分の意見という順番であるべきであると思う。それが建設的な議論の前提だろう。そうじゃないと、自分の意見を言いっぱなし、ただ相手を否定して終わる、ということになってしまう。それでは、なかなか妥協や、より妥当な結論に到達するための議論はできない。しかし、Twitterの文字数制限下では、この譲歩を行う文字数がない。自分の意見を言うので精一杯である。それゆえ、意見vs意見の生産性のないドンパチが繰り広げられるのであろう。

 

と、まあダラダラと思うところを特に推敲することもなく書き連ねてみた。ダラダラと書いただけあって、なかなかに読みづらい文章に仕上がっていると思う。このような、ちょっと読みづらい文章を読めるかどうか、について考えたことも、時間と気力があればまた記事にしてみたいと思う(ここでは関係ないし面倒なので書かない)。

ところで、こうして書き上げれた、というのは、Twitterという阻害要因がなかったからかもしれない。そういう意味では、Twitterを消した効果がすでにあらわれている、と言って良いだろう。

終わりどころがわからなくなってきた、ブログってどうやって終わるんだろう。Twitterみたいに文字制限がないのも、それはそれで(書き手としては)面倒だったりするんだね、ということを実感しつつ、ここで筆を置こう。