けらけらむしざっき

雑記。いかに楽に、幸せに生きるか。

『君の膵臓をたべたい』を読んで思ったことなど

1.はじめに

 『君の膵臓をたべたい』を読んでみました。エキセントリックなタイトルと綺麗なカバーに惹かれて買った感じですが、なかなか面白くて一気に読んでしまいました。

 さて、今回はこの『君の膵臓をたべたい』を読んでみて思ったことなどをかきつらねてみようかと。読書感想文や紹介というよりは、思ったことをまとめてみる、という感じのノリのものなので、どんな内容か知りたい、というニーズにはサッパリあってないと思います。むしろ、ネタバレも甚だしいので、どんな内容か読む前に知りたくないという人は読まないほうが良いかと思います。じゃあ一体どこにニーズがある文章なのかと聞かれても皆目見当もつかないのですが、まあそんなことは気にせずに話をすすめていきましょう。支離滅裂を地でいくような文章になっていますが。

 

2.タイトルについて思うところなど

 まずもって、このエキセントリックなタイトル。えっ、膵臓食べるの?って感じで二度見してしまう、非常に面白いタイトルですね。伏線回収的な部分もしっかりしてますし、うーん、お見事。ただし、一点だけ微妙なところがあります。タイトルは、君の膵臓を「た」べたい、なのですが、作中の表記はすべて君の膵臓を「食」べたい、なんですね。タイトルが「たべたい」であったのに、作中で最初に出てきたときは「食べたい」であったので、これは何か意味があるんだろう、と思っていたわけですが、最後まで読んでどうやら意味はなかったようだ、という結論に至りました。だって、作中ではずっと「食べたい」だったんですもの。

 確かに、タイトル的には「たべたい」の方が見栄えが良い感じがするのですが、タイトルを「たべたい」にするのであれば、作中も「たべたい」に統一してほしかったところです。何か意味があるのかしら、と思ってしまうので。もちろん、僕が気づかなかっただけで何か意味の違いを表現している可能性はありますが。なんかこの文章たべたいたべたい言い過ぎな気がしますね。だから何だって話ですけども。

 

3.主人公の性格、個性、「成長」について思うところなど

 僕はなんだか主人公が自分に似ているところがあるなぁ、と思いながら読んでいました。最近はどうも、ありのままの「弱い」自分からスタートして、周りの人と互いに影響しあうことを通して成長する話が多い気がしますね。「逃げるは恥だが役に立つ」もそうですが。他者を受け入れてこなかった人間が受け入れるようになっていく、というか。別に多いからなんだって話ですけども。好きですよ、そういう話、僕は。

 話はそれにそれましたが、主人公に僕が似ているなぁ、と思う部分がある話です。最近、「お前興味ない人に全然興味ないじゃん」と9年来の友人に言われ、ずがーんときたのです。ずがーんと。ずがーんとってなんだ。…それはそれとして、確かに興味ない人のことを風景として捉えている節があったりするので、なるほどその言葉を放った彼は人のことをよく見ているもんだと思ったものです。ともあれ、他人に介入しようとしない、関わろうとしない、知ろうともしない、という態度が僕にあったことは事実です。その度合いやあり方は成長とともに変化しており、最近はその原因的なものについても考えることが多くなってきました。そんなこんなな人間が、他人と積極的に関わろうとすることは、作中にもある通り、めちゃくちゃ大変なことです。どれほど大変かっていうことを話し出すともうほとんど本関係なくなってきてしまうので、それはまたの機会に。ていうか全然本のこと書いてない…。

 

4.おわりに

 とりとめのない・関係のない話に終始してしまいました。感想を書くのは向いてないのかもしれないですね、これは。まあ、伝わったものは少なかったかもしれませんが、書いているのは楽しかったので、よしとしましょう。とんでもない自己満足ですが。ところでなんでレポート形式になっているんでしょう、この文章。ま、それもどうでもよいことです。

スマホ依存

 最近、スマホに依存していることに気づきました。

 なんで依存しているんだろうって考えてみたんですが、多分、なんでもできるからなんですよね。暇なとき、何をしよーって悩むわけですが、そんなときスマホを開けばゲームができ、SNSができ、何かを検索したりyoutubeとかで動画も見れたりします。つまり、いくらでも暇つぶしができるのです。

 ここまで当たり前のことをいっているわけですが、以外と自分では依存していることに気づかなかったりします。そんなに使ってないよ、と思ってても、意識してみたらかなり使っていることに気づく人も多いと思います。電車や信号を待つちょっとした時間にスマホをいじっていたら、依存の可能性、高いです。

 スマホを使う時間を減らすべきだ、とは別に言いません。しかし、気づかぬうちに泡のように時間が消えていっているとすれば、少なくともそれに気づくべきだ、ということは言えます。その泡が、良いものだと思うならば別に変えなくて良いし、悪いものだと思うならば泡の発生を止めれば良い。要は依存していることに気づくことが大切なんだということです。自分がどれだけの時間をスマホに費やしているのか、ということに気づき、それをどうしていくか考える、ということが必要なのです。

 さて、僕はとりあえずスマホの中でもTwitterに依存していることに気づきました。かなりの時間をTwitterに使っていたんですね。なので、決心して、Twitterを消しました(本当はこれに加えて、Twitterによる情報の洪水によって精神的にちょっとよろしくない状態になったことも理由としてかなり大きかったりするのですが)。

 それでどうなったのか?結論から言えば、Twitter以外のものを見るようになりました。最近はcomicoを結構頻繁に見たりしてますね。

 いや、ダメじゃん!っていう。

 結局スマホ依存から脱することはあまりできていないので、何格好つけてブログ書いてんだって感じですね。まあ、自戒も込めて、ということで…。ただ、脱却こそできなかったものの、Twitterを消したことで、我慢しようと思えばある程度はスマホ依存を我慢できる、という環境にはなりました。なんでかっていうと、誘惑の強さ的に、Twitterはかなり強いけど、他のアプリはそうでもないからです。Twitterは、常に最新の情報が更新され続け、終わりのない誘惑があります。一方、他のアプリは、大概、最新の情報が更新されるといっても、Twitterほどの速さではないです。さらに、1つのアプリを継続して使用する時間も、Twitterの方が圧倒的に長いということもあると思います(他のアプリはひと段落ついたら飽きる)。だから、1つ1つのアプリの誘惑は小さくなって、また、誘惑に負けても、それぞれのアプリの使用時間はそんなに長くないのです。

 と、ここまでそれっぽいことを書いていて思い出したんですが、いやお前スマホ依存脱却できてなかったやんっていう。

 まあ、僕は脱却できていないけど、確かに脱却しやすい環境にはなった、ということは言えるんじゃないでしょうか。そんなふわっとした結論で終わりにしたいと思います(人生そんなに上手くいかないんだよ!っていう)。

ぬるっと人のせいにする文章について

 何か物事を決めようとするとき、相手の意見を聞くことって、よくあると思います。

「これについて、どう思う?」

みたいに。

 でも、これって人の意見を尊重しているように見えて、たまーにずるいなって時があるんです。どういう時かっていうと、何か問題が起こったとき。

 自分の意見を表明していないので、何か問題があったときに、

「いや、俺は言ってないし」

みたいな言い訳が成り立ってしまうんですよね。これでは、意見を聞かれて言った方も、俺のせいかよ!ってなってしまいます。

 結果的に、意見を答えた側も嫌な気分になるし、意見を聞いた側も、実は人に責任をなすりつけているのが見えてしまうので、責任回避とのつもりがむしろ嫌われてしまうことになる。

 ついでに言えば、何も問題が起こらなくとも、聞く側が何の意見も提示していなければ、なんだか人に聞いてばっかりじゃん、という感じがして、あまり良い印象は持たれません。

 ということで、人に意見を聞くとき、自分の意見を表明していなければ、なんだか良くない印象を与えてしまう、ということが言えそうです。

 さて、これに対する対処はいたって簡単です。自分の意見を言えば良い。

「こうすれば良いと思うんだけど、これについてどう思う?」だとか、

「こういうのが良いと思うんだけど。他に意見のある人はいるー?」だとか。

 それだけで、周りを尊重しつつ、周りに責任を押し付けているるんじゃない感を出せます。

 人に何か聞くときは、自分の意見を用意しておくようにしたいものです。

嫌いな人との関わり方

 嫌いな人との関わり方、というタイトルにしたけれど、嫌いな人なんて作らないのが一番良い。なぜなら、人を好きになるのと同様、人を嫌いになることにも体力を使うからだ。

 ふとしたときに好きな人のことを考えるように、嫌いな人のことを考えてしまうことがある。前者なら、(どうせ自分なんて…みたいなことでも考えない限り)プラスの方向の思考で、精神的にもプラスになるが、後者なら、憎悪などマイナスの方向で、精神的にはマイナスになってしまう。

 同じ体力を使う、にしても、それが精神的にプラスになるかマイナスになるかは大違い。体力を使う上に、精神的にマイナスになるなんて良いことなしだから、やっぱり人を嫌いにならないにこしたことはない。

 じゃあ、嫌いにならない方が良いならどうすれば良いか、という話になってくる。関係が上手くいかない人はどうしたっているからだ。となれば、そういう人は嫌いな人ではなく、苦手な人、というカテゴリーに入れてしまえば良い。

 苦手な人なら、憎悪する必要もないし、実際にその人に接する機会以外では、その人のことを考える必要もない。嫌いな人のことはついつい、あんなこと言いやがって(やりやがって)と考えてしまうのと比較してみると、かなり楽になってくる。

 ここまで苦手な人と実際に会っていない場面を想定していたが、実際には苦手な人と一緒のグループで何かしなきゃいけないときはある。そんなときは、苦手だから、まあ極力関わらないようにしつつ、関わらざるを得ないときは仕方ないよね、と開き直るしかない。結局関わらざるを得ないのだが、それ以外の時間での嫌悪感を減らして行くことで、その時間くらいはなんとか我慢できる場合もあるのではないだろうか。少なくとも、ずっと嫌い、嫌いと思っているよりは。

 とはいえ、前半部分(嫌いなところを考えないようにする)の話は理想論じゃないか、という批判も考えられる。「机上の空論!嫌いなところを考えちゃうんだからしょうがないじゃん!」なんて感じ。はたまた「偽善!」なんてのもあるのかも。確かにそういう部分もあるのだけれど、しかし、実際に考え方を変えてみると、意外と思わなくなったりすることもあるよ、という。「あいつあんなこと言いやがって…あっ、無駄な体力使ってるな。自分のために考えるのはよそう。」なんて感じで万事解決。いやいや、こんな風に考えれないんだよ!という話なんだけれど、こんな風に考えるように訓練するんだよ!ということ。無駄な体力使ってるな、よそうって思うことを繰り返していく中で、徐々に、本当にやめれるようになってくる。ひいては、そもそもあいつあんなこと…なんてことをふと考えたりもしなくなってくる、と信じている。

 そんな感じでいられたら、生きるのも、ちょっと楽になったりするんじゃないだろうか。

逃げ恥第4話を見て自由意志について思ったこと

逃げ恥を見返しているのですが、自由意志、というものについてちょっと考えさせられました。

自由意志に関わる部分の話をざっとおさらいしておくと、みくりさんに、みくりさんをかざみさんとシェアする話が出たことがバレてしまいます。そこで平匡さんは、かざみさんのところで働くかどうかはみくりさんの自由意志、みたいなことを言ってしまい、みくりさんが働くことになってしまうわけです。

さて、基本的には僕も平匡さん同様、自由意志を尊重する、というのが大切だと思います。ミルの『自由論』では、他人の行動に干渉して良いのは自衛のために限られる、なんてなことを言ったりしていましたが、そういうことだと思います。

しかし、一方で、みくりさんに働きに行って欲しくないという思いも本音を言えばあるわけです。ですが、ここで、行ってはならない、と強制することは、自由の侵害にあたることになってしまいます。では、どうすれば良いかというと、単純に、行って欲しくないけどね、ということを伝えれば良いのです。

その上で、行ってしまうことも考えられますが、それは仕方ないと割り切るしかないです。他人の行動を思いのままにコントロールすることは不可能だし、するべきではないので。

要は、他者の自由意志が関わる問題については、強制することではなく、コミュニケーションをとること、その上で相容れない部分は仕方がないと割り切ることが大切だと思います。

大丈夫?という言葉

 大丈夫?と言う言葉を適切に使うのは非常に難しい。聞かれた側が、大丈夫じゃないのに大丈夫だと言ってしまったりするからだ。下手をすると、大丈夫じゃないってわかってるのにわざわざ聞いてくるなんて、と、相手の気分を害してしまうかもしれない。そもそも、大丈夫?と聞きたくなる場面は、大抵相手が大丈夫ではない時である。

 大丈夫?という言葉は、心配している、そしていつでも力になる心づもりはあるということを伝えるための第一歩である。しかし、得てしてこの言葉は、この気持ちを伝えるに至らない段階でとまってしまう。

 私たちは、大丈夫?と聞きたくなる心の底にどんな思いがあるのか、ということを考え、それを伝えるべきである。それも、でき得る限り適切な方法で(それが難しいのだけれど)。

アドバイスの分類と仕方

教習に通っているのですが、教習所の教官のアドバイスの仕方がどうしようもなく嫌な時があります。普通に怒られることもあれば、別に怒られたわけじゃないんだけどなんか嫌、という場合もあります。

ということで、アドバイスの種類、そして効果的、嫌にさせないアドバイスの仕方を考えてみたいと思います。

 

・前提

以下の言葉はこういう感じに使っています、という紹介。辞書的な意味で正確ではないかもしれないですが、僕はこう使っている、ということで。

言語的メッセージ・・・メッセージを伝える際の言葉。例えば、「なにしとんねん」だと、「なにしとんねん」っていう言葉自体が言語的メッセージ。文字にできるもの。

非言語的メッセージ・・・メッセージを伝える際の、言葉以外のもの。例えば、「なにしとんねん」の言い方、声のトーン、表情とか。

 

・アドバイスの種類(1)

まず、言語的メッセージについて考えると、基本的に3種類に分けれると思います。

1.事実のみの言語的メッセージ

例えば、「車が左に寄りすぎているよ。もっと右に。」というように、事実のみを伝える場合。

2.事実+マイナスの言語的メッセージ

例えば、「車左寄りすぎや、アホか。右にせぇや。」というように、上で見た事実にプラスして、「アホか」や「〜せぇや」といったマイナスの言語的メッセージが使われる場合。

3.事実+プラスの言語的メッセージ

例えば、「車が左に寄ってるかな。もっと右にすると、もっと良くなるよ。」というように、事実にプラスして、「もっと良くなるよ」といったプラスの言語的メッセージが使われる場合。

 

・アドバイスの種類(2)

次に、非言語的メッセージについて考えると、これも基本的に3種類に分かれると思います。

1.プラスの非言語的メッセージ

例えば、快活な言い方をしたり、笑顔で言ったり。あとは、相手のことを真剣に考えて話していることがわかる言い方だったり。

2.無の非言語的メッセージ

あんまりない。あったら、えっ、何考えてんのってなって怖い。

3.マイナスの非言語的メッセージ

例えば、しかめっ面をしていたり、嘲るような声のトーンで言ったり、バカにしたように言ったり。

 

・効果的なアドバイス

アドバイスの種類は、言語的メッセージの組み合わせで、3×3=9通り考えられます。

一番最初の話に戻れば、

怒られた=「事実+マイナスの表現の言語的メッセージ」+「マイナスの非言語的メッセージ」

なんか嫌=「事実のみ」+「マイナスの非言語的メッセージ」

ということになるかと思います。

つまり、相手を不快にさせないようにアドバイスをしようと思ったら、言語的メッセージは当然ですが、それだけでなく、非言語的メッセージにも気をつけなければならない、ということです。

具体的には、

☆「事実のみ」+「プラスの非言語的メッセージ」

☆「事実」+「プラスの非言語的メッセージ」

になるように心がければ良いと思います。

 

・アドバイスに追加して気をつけたいこと

アドバイスは、できていないことに対して、こう変えたらいいよ、ということを伝えるときに用います。しかし、それだけで終わるのではなく、良い点も伝えることで、よりよいアドバイスになります。例えば、「速度の感覚はピカイチだよ!」だとか。

こうすることで、アドバイスされる側は、できていないことに対するアドバイスを受け入れやすくなるだけでなく、できていないことにばかり着目して落ち込んでしまうことを避けることができます。

さらに、アドバイスをする側も、相手の良いところにより目を向けられるようになるので、先ほどの効果的なアドバイスができるような心理状態になりやすくなります。

 

・まとめ

アドバイスを言語的メッセージで分けると

→事実のみの言語的メッセージ、事実+マイナスの言語的メッセージ、事実+プラスの言語的メッセージの3種類に分けられる。

アドバイスを非言語的メッセージで分けると

→プラスの非言語的メッセージ、無の非言語的メッセージ、マイナスの非言語的メッセージの3種類に分けられる。

つまり、アドバイスは合計で9種類に分けられる。

その中で効果的なアドバイスは、

「事実のみ」+「プラスの非言語的メッセージ」
「事実」+「プラスの非言語的メッセージ」

の2種類。

さらに、できていないことに対するアドバイスだけでなく、できていることを伝えることで、よりよいアドバイスになる。