けらけらむしざっき

雑記。いかに楽に、幸せに生きるか。

いじめについて

今日は、いじめについて、(大学の)学科同期と話しをしたりしました。そこで、過去に僕が書いたレポートと関連する話題が出たので、引っ張り出して、まあせっかくなので(?)少し手を加えた上で公開しようか、と思った次第です。レポートの内容を公開するのがセーフなのかはわかりませんけれども、成績が出たあとなので剽窃とかは大丈夫かな、ということで公開します。

特にわかりやすく書き直そうというほどのやる気はでなかったので、小難しく書いたままです。また、以下で紹介している種類のいじめというものはすべてにおいて当てはまるような話ではないということはあらかじめ言っておきます。

言うまでもないですけれども、課題のレポートに流用してやろう、というのはダメですしバレます。

あ、あと僕としては今更なのでこういう話をしてもなんとも思わないんですが、読む人によっては暗い気分になる可能性があります。

 

『いじめの政治学』とは異なるタイプのいじめー個人的な経験からの語りと分析ー

1.はじめに
中井(2016)は自身のいじめられた経験をもとに、いじめの構造と、いじめがクラスの中でどのように成立し、問題視されなくなっていくかを分析し、子どもに語りかける形で記述している。特に興味深いのが、いじめが進行するプロセスである、「孤立化」、「無力化」、「透明化」の3つのプロセスである。これは、少なくとも個人的には、いじめがある特定の個人(群)に対して、クラス全体を巻き込んで持続的に行われる際のプロセスをよく表しているように思われる。実際、昔を振り返ってみれば、「無力化」、「透明化」までは行われないまでも、集団によって、意図的、無意図的に「孤立化」が行われてきた場面を多く目にしてきた。
 鹿嶌(2008)は、中井(1997)をレポート課題に用いて、教職課程を受講している大学生のいじめ理解がどのように変容するかを検討している*1。その結果、いじめの構造への気づきや、プロセスへの着目、いじめの被害者批判の減少など、大学生のいじめ理解が変容したことを示している*2。このように、中井(1997)はいじめの理解に実際に役立っている。
 しかしながら、実際に起こっているいじめは、良くも悪しくも、中井(2016)が想定しているほど、特定の個人(群)に対してクラス全体を巻き込んで行われる持続的なものではない場合もある。
本稿では、私の個人的ないじめられた体験をもとにして、中井(2016)を補完するような形でいじめを分析したいと思う。その際、相応しくないと思われる表現もあるかもしれない。しかしながら、客観性にとらわれるあまりに、体験者としての語りを重視できない、という状態を避け、可能な限りその場にあったものを表現できるように心がけたがゆえである。客観では語り得ないものを語るという点において、意義深いと言えよう。なお、主観的な表現に関しても、可能な限り定義をするように心がけた。また、個人的な体験であり、一般化は必ずしもできないことはあらかじめ指摘しておく。
 以下では、まずいじめの定義を紹介し、個人的体験をもとに分析を行なっていく。

 

2.いじめを分析するー私の個人的体験を通してー
 私の個人的体験を通して中井(2016)を補完するにあたって、まずはいじめの定義を紹介しよう。文部科学省初等中等教育局児童生徒課(2014)では、以下のように定義されている。

 

「いじめ」とは、「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒と一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものも含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの。」とする。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 

 この定義からも明らかなように、いじめは、必ずしも持続的なものであるわけではないし、クラス全体を巻き込んで(クラス全体の目に映る場で)行われるとも限らない。実際、私(たち)に対して行われたいじめは、断続的なものであった。
 中学生のころ、私たちの学校には確かにいじめがあった。私がターゲットになることもあったし、ほかの人がターゲットになることもあった。それは、誰かが毎日ターゲットにされるという形式ではなく、断続的に、ランダムに被害者が選ばれるという形式であった。この点において、中井(2016)の基にしている体験とは異なっていると言えよう。
 被害者に共通していたのは、いわゆる「陰キャ」とカテゴライズされる人々であった点である。ここで「陰キャ」とは、うだつのあがらない、クラスの中で周縁的な立ち位置にいる人々のことである*3。このように、「陰キャ」というレッテルを貼ることは、中井(2016)の言うところの、いじめられても仕方がないという空気を作り出す「PR作戦」であろう。実際、被害者にも悪いところはある、しょうがないという空気は確かにあった。とはいえ、「孤立化」までは至っていなかった。持続的に「孤立化」、「無力化」、「透明化」のプロセスを経るいじめとは異なり、断続的にターゲットが変わるいじめの特質として「PR作戦」にとどまることが多いと言えるのかもしれない。
 なぜ、いじめは持続的なものではなく、断続的なものだったのだろうか。それは、いじめの主犯格とされる人々が、いわゆる「不良」と呼ばれる人たちであり、そもそもクラスの中にいることが少なかったからではないだろうか。そのため、クラス内で常にいじめが行われるということはなく、偶発的にいじめが行われるという形式だったのだろう。しかし、ここで疑問が生じる。クラスにいないならば、「PR作戦」は一体誰が主導したのか、という疑問である。この点に関しては、「不良」がいじめのために主導したわけではなく、クラス内で自然に形成された、とみるのが妥当であろう。ここに、自然に形成されていく空気というものの恐ろしさが現れていると言えよう。それは、「不良」を媒介にしていじめという形を取ることもあれば、クラス内でなんとなく虐げられるという形を取ることもある。これは、必ずしもいじめの定義には当てはまらないが、クラスにおける問題を提起しているといえよう。
 いじめの種類は、暴力を伴ういじめが多く、時には「肩パン」(相手の肩を殴る)という形であったり、「プロレスごっこ」(プロレス技を決める)であったりした。また、数人で取り囲んで、くすぐったり、靴下を脱がして外に投げたり、あるいは荷物を投げたり、壊したり、奪ったりすることもあった。このような集団で行われるいじめにおいて、私の経験として問題だったのは、主犯格とされる「不良」以外の人たちである。ここにおけるいじめの構造は、「ドラえもん的」という言葉が当てはまるかもしれない*4。どういうことか、というとジャイアンのび太をいじめている主犯格のように見えるが、その実、いじめの場面を作ったり、状況を悪化させたりしているのはスネ夫であったということである。私の場合も確かにそうで、スネ夫的人物がきっかけであることが多かった。ここにおける問題点は、とりわけ外部からはスネ夫的人物の狡猾さ、悪意が見抜けないことである。実際、教師が叱るのは、大概ジャイアン的人物であり、スネ夫的人物はあまり叱られることはない。しかしながら、きっかけを作るのは大概スネ夫的人物であるので、この指導ではいじめの改善はあまり起こり得なかった。スネ夫的人物は、あまり叱られないので、それほど反省せず、時がたてば、しばしばターゲットを変えて同じことを繰り返すのである。

 

3.おわりに
本稿では、私の実体験をもとに、中井(1997)とは異なるであろう事例を分析した。ここで明らかになったことは、大きく分けて(1)いじめの中には断続的に、ターゲットが「陰キャ」の中からランダムに選ばれることもあるということ、(2)「陰キャ」というレッテルは「PR作戦」の成果として捉えることもできるが、実際にはクラスにおいて自然に発生したものである可能性があり、いじめに限らず多様な問題点をはらんでいること、(3)「不良」が主犯格であり、教室にいないことが多いならば、いじめは断続的で「陰キャ」の中からランダムに選ばれる形式になりやすいのかもしれないということ、(4)集団で行われるいじめには、「ドラえもん的」といっていい構造がある場合があり、その場合は特にスネ夫的人物の狡猾さ、悪意が外部からは見えにくいという問題があるということ、の4点である。
本稿では、体験の語りを生かすという特性上、例えば「陰キャ」などの不適切な表現もあったが、そのデメリットより、物語ることができたというメリットの方が大きいと考える。なお、本稿は、あくまで一事例の一面的な語りにとどまるものであり、一般化可能なものではない。しかしながら、いじめの理解の深化や、新たな問題点の提示、仮説の生成においては十分に役立つものであるといえよう。

 

参考文献
鹿嶌達哉(2008)「思春期の問題行動に対する大学生のとらえ直し : 中井久夫氏「いじめの政治学」に対するレポートの分析(発達,ポスター発表B)」, 『日本教育心理学会総会発表論文集』(50)。
中井久夫(1996)「いじめの政治学」、『アリアドネからの糸』。
中井久夫(2016)『いじめのある世界に生きる君たちへーいじめられっ子だった精神科医贈る言葉』。
文部科学省初等中等教育局児童生徒課(2014)「平成 25 年度「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/26/10/__icsFiles/afieldfile/2014/10/16/1351936_01_1.pdf、2018年7月20日閲覧)。

*1:中井(1997)は論文であるが、これにもとづく形で、子どもにも読めるように書き直されたのが中井(2016)である。

*2:ただし、中井(1997)のレポート課題のみならず、授業も行われているようなので、必ずしもレポート課題、中井(1997)を読んだことが原因であるとは言えない。また、中井(1997)を読んだ後であれば、それが本当に妥当だと思ってはいなかったとしても、コメントシートにはそれに沿った記述をするであろうから、必ずしも大学生の理解が変容したとは言い切れない。とはいえ、仮に理解が変容していない学生がいたとしても、知識が増加し、いじめを構造的に見る視点を得たという点に関しては間違いがないといって良いだろう。

*3:スクールカーストという文脈で言えば、最下層。

*4:ドラえもん』においては、ジャイアンスネ夫によるのび太に対するいじめが持続的に行われており、その意味では本事例とは異なると言える。ところで、ジャイアンスネ夫のび太に対して行なっている行為は、定義に照らしてみても明らかなように、いじめであるといえる。